小説 昼下がり 第二話 『梅雨の雫(しずく)』



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 『梅雨の雫(しずく)』
        平原(ひらばる) 洋次郎
       (七)
 外は雨がシトシトと、むし暑い。
 今日は土曜日、仕事は半ドン。本来は心
うきうき楽しい気分を味わうのだが何故か、
気持ちが優れない。
〔気圧が低いせいかもしれない。気圧の低
下と憂鬱(ゆううつ)の増幅においての因
果関係は理化学的に証明されている〕―と、
啓一は空を見上げ、小さくため息をついた。
 下宿に帰った啓一は、二階の六畳一間の
卓袱台(ちゃぶだい)の上に通勤用の小さ
な黒かばんを無造作に置き、雨降る外をな
がめた。
 ガラス窓が曇(くも)っている。うっす
らと浮かび上がる自分の顔と対面した。
 蜘蛛の糸のような梅雨の雨が間断なく降
り注いでいる。
 〔蜘蛛の糸…か〕―啓一は中学生の頃に
読んだ芥川龍之介の短編小説『蜘蛛の糸』
が脳裏を掠(かす)めた。
〔ある日の事でございます……から始まる
「蜘蛛の糸」は、釈迦と一筋の蜘蛛の糸を
通して天国と地獄、善と悪を表現した大正
七年作の芥川の傑作〕。
 〔人は皆、いざとなれば己一人が助かれ
ばいいと思う虚(むな)しい生き物だ……〕

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 ぼんやりと、窓ガラスに映る自分に問い
かけた。
 窓の向こうに流れる川のほとりの一画に
咲き誇る紫陽花(あじさい)の花が雨に濡
れて光り輝いている。
 川向かいの二階建ての簡易旅館の一室か
ら今日も軽やかなメロディーが流れている。
聞き覚えのある音楽だったが、思い出すの
にそれほど時間(とき)を必要としなかっ
た。
「悲しき雨音」〔Rhy thm of the Rain〕。
正(まさ)に、雨音に消されて良くは聴こ
えないが……。
       (八)
 と同時に、啓一は胸が締め付けられるよ
うな息苦しさを覚えた。
 二ヵ月前の大雨の中、本屋で立ち往生し
たとき、軒下で雨宿りをしていた若き女性
のことが気になっていた。
 あれから数回、親父の居る本屋に行くが、
ことさら取り上げて彼女のことを話題にす
ることはなかった。
 いつものようにふらりと立ち寄り、良い
本があれば二言三言、喋って買って帰るだ
け。何となくだが、親父は彼女のことを知
っていそうな気がした。だが、あえて互い
に口火を切ることもなかった。
 時々、腹の中を見透かしたような態度が

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癪(しゃく)にさわることがあるが、たい
して気にもとめていない。またいつか彼女
と逢える日が来るかもしれない……。
 啓一は雨でどんよりと曇(くも)る外を
見つめ、もどかしさを打ち消すかのように、
頬を数回叩いた。ひとつ気になるのは、雨
宿りを終え、小走りで帰るとき、彼女がチ
ラリとこちらを向き、軽く会釈をしたこと
だ。その黒い瞳は、今でも瞼(まぶた)に
焼き付いている。
 「ま、いつか逢えるさー」、雨音の鼓動
を聞きながら、啓一は心でつぶやいた。
       (九)
 そのとき、階下で人の声。
 「おーい、啓一いるか!」―。少しドス
のきいた聞き覚えのある低い声。
 友人、山口透(とおる)が訪ねてきた。
 「上がるどー」と、方言丸出しで、年期
の入った黒光りのする板張りの階段をゆっ
くりと上ってきた。ギィー、ギィーと上が
り下りするたびに響く音は、築三十五年の
歴史を感じる。
 透とは、福岡の田舎町の某中学・高校で
机を共にした間柄。高校当時、柔道部で汗
を流していた。途中、二人で良く抜け出し、
田舎町の警察署の道場で、署の猛者たちを
相手に稽古をしたものだった。

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